完全な食欲を求めて[連載2]

肉とは一体何なのか?

昨日に引き続いて、トゥネガティブで連載されていた
阿久津勘平さんのコラムを転載したいと思います。
本来は1ページ三段に別れての掲載ですが
昨日のは読みにくかったので、適度な改行での打ち込みにします。

鯨を喰うな!牛を喰え!
 ということか!?

牛もうまいが、鯨もうまいという。しかし鯨は、いつのころからか喰えなくなった。
昔、鯨を喰ったような気がするが、明確な記憶はない。
どの部分を、どのようにして喰ったのか。
それがどんな味だったのか、まったく覚えていない。
いろんな食い物を喰って、様々な味を知り、鯨も喰ってみたくなったころは、鯨は喰えなかった。
 鯨を思うように喰えなくなったのは、いうまでもなく国際的な捕鯨禁止措置である。
正確に言うと、『国際捕鯨委員会IWC)』が、商業捕鯨の全面禁止を決めたからだ。
日本はこのIWCに加盟している。だから、そこでの決定に拘束されている。
 IWCへの加盟は、別に強制されているわけではない。
そもそもIWCは、「捕鯨委員会」であって、「野生動物保護委員会」とかではない。
捕鯨を行う国々によって、その資源としての保護を目的に設置されている。
しかし実態はすでに、捕鯨を行う国の集まりでなく、捕鯨をやめた国と、初めっから捕鯨に関係しない国が大勢を占めている。
日本はその中の少数派で、捕鯨禁止に反対している。
だから、「当初の設立目的と異なる実態を持つ。変質したから、脱退する」
といってもかまわない。
 もっともこれは、IWCの規約の上で、脱退の権利が保障されているにすぎない。
IWCへの加盟も脱退も、外交政策である。
数多くの外交政策の一つにすぎない。
一国で勝手なことをやると、他にしっぺ返しがくる。
それを恐れて、日本政府は捕鯨禁止に同調している。
無理に捕鯨を続けて、日本の商品を外国に買ってもらえなくなることを恐れるからだ。
 同じことは他にもある。日本が輸入を禁止していた数々のものを、外国から買わなくてはならなくなった。
最近では米やリンゴやサクランボ。牛肉やオレンジもそうやって買わされる羽目になった。
半導体や家電・自動車を売る権利を守るため、いろんなものを買わされる。
つまりは、「鯨を喰うな、牛を喰え」ということか。


 日本が捕鯨禁止を受け入れる理由は、わかった。
では捕鯨禁止を求める人々の理由は何か?


 生物種としての保護が理由に挙げられている。
しかし、これが唯一の理由ではない。いやこれは、表向きの理由にすぎないというべきだろう。
捕鯨は段階的に禁止され、最終的には全面禁止となった。
最終段階ではすでに、鯨の生息数は増加が確認されていた事実がある。
 だから本当の理由は、他にある。
それは、「鯨はとても賢い動物で、そんな鯨を殺してはならない」という主張だ。
そう思い立った一人の青年が、捕鯨反対運動を細々と始め、それが世界各国に広がり、今日の姿を生み出した。


そのような認識が、どうやって生まれてきたのかを追ってみよう。
 彼らはキリスト教徒である。キリスト教徒にとって、人間と動物は決定的に異なる。
人は、神が神に似せて作り上げたものであり、動物は、神が人間のために作ったものである。
神が人にとって絶対者であるがごとく、人は動物に自らを絶対者として位置を与えられた。
煮て喰おうと、焼いて喰おうと、勝手である。
 海で、鯨を捕れるだけ捕っていた時代もあった。
神からの贈り物だから、当然の話だろう。
蒸気船と捕鯨砲を発明し、より遠くの海から、より多くの鯨を捕ってきた時代。
それは、街で「動物虐待ツアー」が繁盛した時代でもあった。
彼らの動物感は、そのようなものにすぎなかったのだ。


 ダーウィンが進化論を唱えた時、神の教えに背くものとして、彼らは強く排撃した。
しかしそれもやわらぎ、やがて受け入れる。
だからといって、宗教を捨てたわけではない。
彼らにとって、宗教と科学の関係は、生じた矛盾を適当に緩和させるものでしかないからだ。
 神がいる。日本のように、八百万もいるわけではない。
唯一絶対の神が、存在するだけだ。他の神はまやかしにすぎない。
その彼らの神は、全知全能である。だから、この世界を作ることができた。
神が作った世界だから、美しい。
そう堅く信じたケプラーは、惑星軌道の観測と数値化を、信じがたい根気よさで続けた。
やがて、惑星運行に関する三法則を発見する。その成果を生みだしたものは、ケプラー自身の振興に他ならない。
同じ時代に生きたガリレオが天動説を唱え、宗教裁判に掛けられた事実を信者としてどのように受け止めたことであろうか。
 神が全知全能なら、神は自ら持ち上げることのできない岩を作ることができるだろうか、
……などと問うてはならない。それは神を侮辱するだけのものだから。
 しかし同じようなトイを、キリスト教の科学者たちは問うた。
神の意思は、いつ働いたのだろうかと。すなわち、この世は神が作りたもうた。
ここに神の意思がある。創世以降に、神の意思を働かせる必要があるだろうか。
全知全能であるなら、その必要はない。
創世という行為のうちに、終末に至るすべての意思を織り込む事も可能だから。
従って神は、それ以降自らの意思を発現する必要がない。
ただ見守っているだけだ。
あるいは、何が起きるかも見通しているので、見守ることもせず、居眠りをしているかも知れない。


キリスト教科学者は、神の作った世界の法則を研究し、神のこの世界に込められた意思を知ることができる。
気まぐれな神のイタズラを心配とする必要がない。
 ニュートンの発見した力学は、現在の運動から、未来を予測することができる。
宇宙という神が作った世界は、機械仕掛けのと理解された。
最初の一撃を与えたのは、神となる。
その思想は、現代科学のビックバン理論へと継承されることとなる。
ビックバンの一閃が、「初めに光りありき」となる。
欧米の科学者の無神論は、実は理神論である。
 神の存在を疑うことなく、予言と科学の矛盾は、予言の解釈の変更によって解消する。
キリスト教徒は、このように科学と宗教の対立を克服してきた。
もっともこの解釈変更は一様になされたわけではない。
たとえば恐竜について、あるものは「神が作った大地を踏み固めるため、恐竜を作った」などとする。
別なものは「そもそも恐竜が実在したわけではなく、恐竜の化石を作ったにすぎない」などとする。
聖書をそのまま読めば、この世は数千年前に作られたことになっているから
このようなほほえましい解釈がなされるのだ)。


予言の解釈変更は、世界観の変更につながる。
進化論の承認は、動物観を革命する。
それはすべてのキリスト教徒の中から、一斉に行われたものではない。
あるいは、協会という宗教上の権威がそれを推進したわけでもない。
長い年月を経ながら、社会の様々な分野でそうした意識の変化が起こった。
社会的。あるいは文化的な営み(それはすでに彼らにとって完全に定着したものであったが)に対する
小さな疑問から出発し、個々の思想を形成し、社会運動に成長した。


進化論は、人間と人間以外の動物との間の境界線をかき消した。
それ以前は、聖書の預言書通りに、まったく無前提にその境界線を認識すればよかった。
その境界線がなくなってしまったら、人間の動物に対する絶対的優位性を喪失してしまう。
これでは困る。だからこの境界線の引き直しや、境界線の意味自体を問い直す必要性を説く人々も現れた。
 動物実験反対運動、毛皮着用反対運動、肉食拒否運動、捕鯨禁止運動等々、
ベジタリアンアニマルライツなどの新語とともに登場したこれらの運動は
他の様々な新しい社会思想とも、一部では結びついた。
 毛皮を売るデパートに抗議し、それが受け入れられなければ、爆弾テロを仕掛けるといった自体も生まれている。
先鋭化した運動が存在するのは、広大なすそ野を持った運動が存在する証拠だ。


 もっとシビアに問題が現れたのは、動物ではなく人間そのものであった。
動物観の転換は、人間観の転換と同義である。
人間はいかなる理由で他の動物と区別されるかを問題にしたからだ。


 人間の人間に対する医療。
この現場に、動物観=人間観に対する革命は、大きな影響をあらわしたのだ。
もっとも、先行したのは思想ではなく、技術であった。
 先鋭化した科学技術は、生命活動を分子レベルで扱う領域に達した。
にんげんが数千年から数百万年の長きにわたり蓄積してきた「薬」に関する知識を、再構築した。
治療のための効能を、薬でなく成分として分析する。
そればかりか、より効率の高い物質を発見する努力は、発明する努力に置き換わる。
発見・発明された成分は、分子式まで明らかにされ、大量生産の法則の研究に回される。
 治療対象の研究も、分子レベルで行われる。
即時的治療のためだけではない。病巣だけでなく、健康体そのものも研究対象となる。
人間の生命活動とその存在までもが、分子レベルで明らかにされようとする。
 治療や検査の技術は、原子レベルの技術さえ使われる。
放射線や、枝磁気、超音波などが動員されている。


 かくして医療現場の人間は、魔法を入手する。
手を触れることなく骨格や内臓の様子を把握する。
好きな部位を選んで、特定の機能を活性化させることも、沈静化させることもできる。
必要なら、体の奥深くの特定の細胞だけを殺してしまうことさえ可能になりつつある。
機械のパーツを取り替えるように、人間の内臓も取り替える。
あるいは機械で代行させる。
 研究は始まったばかりだ。
少なくとも彼らは、そう理解している。
技術開発の壁は見えてこない。多少の壁には遭遇したが、常にそれをブレイクスルーしてきた。
 たとえば半導体の素子の小型化には、理論上の壁が存在する。
いかなる努力をしても、決して超えることのできぬ壁が存在する。
現在の研究は、それにいかに近づけるかが、課題となっている。
 医療技術の開発に、原理的な壁は存在しない。
彼らはそれを見つけていない。だから、どこまもで発展するものだと見通す。
 最初にそのことに気づいたのが誰かは知らない。
しかし、誰かが気づいた。
「われわれのてにしているのは、人間の技術か、神の力か」と。
このまま行けば、不老不死さえ可能ではないか。
病気であれ、けがであれ、そのまま放置すれば死んでしまう人を治療して、死なさないのが医療だと信じてきた。
では、老化して死ぬことを押し止めるのも、医療かと。


未来の技術への不安は、杞憂だろう。
しかし、手にした技術、手にしつつある技術でさえも、すでに人の領域を超えている。
 問いは医療の中からだけ発せられるとは限らない。
「人と牛の遺伝子を組み合わせれば、牛の体に人の頭もできるだろう。
 これを件(くだん)と呼ぶ。
 件に人権はありや?
 件の肉は食することが可能か?」
法哲学者は問う。
 同じころ、もう一つの問いが生み出された。
よりベットの近い場所から。


 われわれが眼にしているのは生きた人間だろうか?


医療従事者であれば、山と見てきた。
自立呼吸しないもの。心臓停止のもの。脳波停止のもの。
「もうダメだ」経験的にはある程度わかっている。
しかしすぐには、治療をやめない。
ある確立で、助かることのあることを知っているからだ。
しかもその確立は、医療技術の発展によって、確実に増加しているから。
 ひとつひとつ、様態のステップを踏んでいるごとに、生還の確立は下がる。
それがゼロとなるまでは、治療を継続してきた。
 別の医療従事者が近づいてきた。そこで囁く。
 この患者、もうダメなんじゃない?この患者の臓器をぼくの患者に移植すれば、この患者の命が助かるんだけどなぁ。
 とりあえず反論する。
 この患者は、まだ生きている。生きている以上、治療するのがぼくの役割だ。
 しかし納得しない。
 いいや、この患者はもう死んでいるよ。
少なくとも、99パーセント以上しんでしまうし、ぼくにはもう死んでいるように見える。
このままでは、ぼくの患者も死んでしまう。
二人死ぬを見過ごすより、一人でも助けるのが、医療従事者の役割だ。
 二人の医療従事者は、いつ人が死んだのかを明確にする、共通の基準を設けることで合意する。
 断っておくが、この二人はキリスト教徒の医療従事者だ。
だから患者が、いつ神に召されたのかを明確にする行為として、合意したと認識を持つ。
彼らは元々、生と死の境界線があると信じていたからだ。
ちなみに仏教国日本の医療技術者は「その瞬間」を認めない。
「ご臨終」すなわち、終わりに臨む状態であることを、家族に告げるだけである。


 われわれが眼にしているのは、生きた人間だろうか?


 別の医療従事者も、同じ問いをする。
いわゆる堕胎医である。
妊娠何週目までが中絶の限界かは、法で定められている。
しかし同じ時期の早産で、育てることのできることを知っている。
しかもその時期は、技術によって確実に早められている。
 母胎から切り放しても、医療技術の支えさえあれば生き抜き、やがてひとりの人間として成長する。
中絶は殺人ではないかの自問。その問いは、やがて胎児から、受精卵、精子卵子にまで拡大する

 拡大した社会保障は、人生における医療との接点を確実に拡大した。
同時に医療技術は急激に発達した。両者は交わることで、医療現場に「人間とは何か」を問いかけた。
 これは進化論承認以降の「人・動物」関係が結びつく。そこである主張が生み出される。


 人間が、人間以外の動物に対する特権的な地位を、神から享受しているのは、その知性による。
知性を持って人間は、他の動物と区別される。
知性を持つものが人間であり、知性をまだ持たぬ胎児や、知性を失った脳死体は人間ではない。


 このような主張は、もっぱら古典的キリスト教信者に対抗してなされた。
欧米における中絶反対運動は、時として政治問題にまで発展している。
その中心を担っているのが、社会の倫理的腐敗を憂いる協会を中心とした古典的キリスト教徒である。
 主流をなすのは、プロテスタントである。
少数派のカトリックは、避妊を認めない。
要するにセックスとは、子孫繁栄の手段であって、快楽の道具ではないと徹底している。
 そこまで厳しくないプロテスタントも、現代社会の性をめぐる状況を容認できるほど寛容ではないだろう。
矛盾はもっぱら、妊娠中絶へと向けられる。
 超音波スキャナーによって映し出される胎児の動く姿を、TVで放映し、中絶反対のキャンペーンとなす。
 中絶をする病院にデモを仕掛け、あげくは医療従事者を射殺する事件も起きる。
これも運動の広がりを示している。
 それは中絶問題だけにとどまらない。
人工授精や男女の産み分け、遺伝子組み換え。
自然の摂理=神の意思に反すると思われる、すべての医療技術に疑問が提出され、批判が行われる。
自らを「人間の尊厳派」と位置づけて。



これに対抗するのは、「生命の質派」である。
人間が人間として他の動物と区別される根拠を、神の意思とする点で、両者は変わらない。
 しかし「尊厳派」は人間が人間であることを無前提で理解する。
換言すれば、胎児も、受精卵も、培養された細胞も、植物状態の患者も、脳死の患者も、あるいは遺伝子も
すべて人間であると理解する。
 他方「生命の質派」は、知性を以てこの区別を行う。
「知性があるから、人間は他の動物と区別される」と。
知性のない、胎児や受精卵・体細胞・遺伝子・脳死者はすべて人間として見つめる必要はないとする。
そればかりか、重度の精神薄弱者や痴呆性老人、乳児さえ
「人間としての知性はなく、従って人間としての権利は本質的に持つものではない。
 彼らにも人権が認められているのは、便宜的なことにすぎない」と断言する。
 逆に、人に近い知性を持つ存在は、その近さに比例した権利を認めるべきとの主張につながる。
かくして鯨は、人に殺されない権利を獲得した。
すべては、神の意思である。


 いうまでもなく、これらはキリスト教世界の話である。
キリスト教世界=クリステンダムとは、現在のヨーロッパを指す呼称でもあった。
かの地の人々は、自らの住む世界をクリステンダムと呼んだわけだ。
南の肥沃な世界をイスラムという異教徒に支配され、寒い北の果てに細々と暮らす人々の自己意識をあらわしている。
 突然発達してしまった科学技術と、それに裏打ちされた軍事力。
この二つは、キリスト教の世界を一気に広げた。
もはや自らの居住地をクリステンダムと呼ぶにふさわしくなくなり、新たにヨーロッパの呼称を授けた。
 クリステンダムは広がったが、われわれはクリステンダムに住んでいるわけではない。
キリスト教を信じるわけでもない。
 われわれにとって動物とは、神から与えられたものではない。
それは時として神になる。時として人ともなる。人に等しい存在であった。
 動物も、人も、神でさえも、等しく絶対的な存在ではなかった。
ただあるがままに存在し、あるがままに振る舞う。
そのようなものでしかなかった。
 鯨を捕った日付が過去帳に記録され、戒名やつけられる。
胎児さえ人間の子と同じように葬られる。
年に何日か、法要も行われる。
鯨に限らず、食される動物は、必ず慰霊される。
万物に魂が宿るのだ。
まして兎や猪、牛や鯨を供養するのは当然となる。
 これがわれわれの持っている動物観であり、人間観・世界観だ。


 肉を喰う。内臓を喰う。美味く喰う。皮や脂、骨を使う。
これらはすべて一体となることによって、人と動物が一体となって、生き続けることを意味する。
ここにあるのは「使えるものは使う」の合理主義ではない。断じてない。
その思想は、われわれに種を絶滅させてこなかった。
生物種を絶滅させた思想は、絶対神の思想であり、合理主義であり、「知性」の思想だったからだ。
 だから、牛を喰い続ける。



以上。トゥネガティブ6月号 N.5 JUNE 1995 吐夢書房
の、阿久津勘平さんのコラムを5P転載したものです。
こうやって文字起こしをしてみて、改めて自分の文章の起源がココにあるのだと思いました。
主題から、全く関係のない話に移り変わって、最後に主題に戻るという展開といい
文章を作る言葉使いといい、阿久津さんの影響をかなり受けていると自覚しています。
前回の牛を食べる話から、一気に宗教観へと移り変わるコラムの守備範囲は凄すぎるな。
明日掲載予定の「猿」の話も、また意外な展開を見せてくれる面白い内容ですよ。
こういった文章が、10年以上前のエロ本に載っていたというのが素晴らしいな〜
編集長の小林小太郎さんは、今でも編集活動をしているのかな?
エロ本に、こんなコラムを掲載しようとした経緯を聞きたいものだ。